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2011-08-14(Sun) [長年日記]

_ 遺伝子操作された疫病が猖獗を極め、カロリー企業が世界を支配し、ゼンマイがすべてを動かす未来にようこそ──『ねじまき少女』書評

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)(パオロ・バチガルピ/鈴木康士/田中一江/金子浩)

なんとも暗い未来を描いた小説だ。

遺伝子改造されたウィルスや害虫が猛威を振るう未来。ほとんどの作物は新種の疫病で死に絶えているため、カロリー企業と呼ばれるバイオ企業が一代限りの穀物を独占的に販売、世界のカロリー事情を牛耳っている。石油枯渇と温暖化による海面上昇により、二酸化炭素を排出する燃料を使うことはできず、主な動力源はゼンマイとなっている。巨大なジュールを溜め込むことのできる新型ゼンマイを遺伝子操作された象が巻き上げるという、文字通りハイローミックスな光景が繰り広げられているのだ。

東南アジアのほとんどの国家が崩壊する中、唯一、カロリー企業の支配を受けず、独立を保っているタイ王国の首都バンコクが本書の舞台となる。

ストーリーは四者の視点から紡がれていく。

1人目が西洋人(ファラン)、アンダースン・レイク。表向きは改良型ゼンマイ工場の経営者という彼の本当の顔は、カロリー企業のエージェントだ。アンダースンは、タイが独立を保っている秘密を探ろうと暗躍する。

2人目がアンダースンが経営する工場のマネージャー、ホク・セン。かつてはマレーシアで富豪であった彼は、中国系マレー人に対して吹き荒れた民族浄化から家族の中で、ただひとり生き延びたという壮絶な過去を持つ。今は「イエローカード」と呼ばれる難民に身をやつしたホク・センは、なんとか一家を再興しようと画策する。

3人目は環境省の検疫部隊、通称「白シャツ隊」の隊長、ジェイデュー。元ムエタイのチャンピョンであり、不正が横行するタイで厳しい取り締まりを行ない、「バンコクの虎」として国民から絶大な人気を誇っているジェイディーは、ある取り締まりをきっかけに、タイの複雑な政治に巻き込まれていく。

そして、4人目が本書のタイトルにもなっている「ねじまき」の少女、エミコ。遺伝子改造された新人類「ねじまき」であるエミコは、秘書として仕えていた日本人エグゼクティブから捨てられ、今は場末のクラブでダンサーとして働いている。遺伝子操作物には厳しい態度を取っているタイ王国にとって、彼女は国内にいることさえ違法な存在。周囲からも人間扱いされない日々を送るエミコは、ある噂を聞き、自分の生きる道を模索しはじめる──。

暴走する遺伝子操作技術、市場支配を狙うアグリビジネス、混迷を深めるタイの政治情勢といった現代社会の暗い面をそのまま延長した、明るさの欠片もないディストピアを描き出した作品であるが、個人的にはとても面白く読んだ。なんといっても暗いながらも魅力的な世界観と、そこで懸命に生きる人々の描写が素晴しい。

ただ、残念なことに、その肝心の世界観が非常に分かりにくい。ストーリーの中では、ごくごく断片的にしか説明がされていないためだ。Amazonのレビューでは本書の評価は両極端なようだが、この分かりにくさも原因のひとつはないかと思う。

実は、作者であるパオロ・バチカルピは、本書の前に同じ世界観を扱った「カロリーマン」と「イエローカードマン」という2つの中編を発表している。世界観はこれらの作品で詳しく説明されていて、本書を読むための前提条件もしくは参考書ともいえるものになっているのである。この2作を抜きにして本書を読んでも、面白さは分からないだろうなぁ、というのが正直な感想だ。

問題は、この2作がSFマガジンのバックナンバーを漁る以外に、読む手段がないこと。ごくごく一般的な読者に、SFマガジンのバックナンバーを探してから本書を読めというのは、あまりにも敷居が高すぎる。早川書房は、まず、「カロリーマン」「イエローカードマン」を含むパオロ・バチガルピ短編集を出すべきだったのではないだろうか。キツいことを書けば、SFを手に取る読者が全員SFマガジンを読んでいる、などという考えは驕り以外の何者でもない。本書で初めてバチカルピ作品に触れる人に、本当の魅力が伝わらないのは残念だ。

出版社への苦言は呈したが、図書館でSFマガジンのバックナンバーを探してから本書を読むという苦労をしたとしても、それに見合うだけの価値は、本書には充分にあるということは強調しておきたい。

遺伝子操作された疫病が猖獗を極め、カロリー企業が世界を支配し、ゼンマイがすべてを動かす未来にようこそ。

なお、「カロリーマン」と「イエローカードマン」は、次のSFマガジン・バックナンバーに所収されている。

  • 「カロリーマン」(SFマガジン 2007年3月号)
  • 「イエローカードマン」(SFマガジン 2007年8月号)
Tags: SF 書評