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2010-08-02(Mon) [長年日記]

_ ナチス・ドイツと講和した、もうひとつのイギリスで起きた殺人事件を描いたミステリ。ミステリという文法を用いながら、もうひとつの歴史を描き出す作者の手腕は見事 ── 『英雄たちの朝』

英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)(ジョー・ウォルトン/茂木 健)

1941年5月のナチス副総統ルドルフ・ヘスのイギリス飛来を契機として、英独講和が実現した世界を舞台にした小説といえば、クリストファー・プリーストの『双生児』があるが、本書『英雄たちの朝 ファージングI』は同じ世界設定をミステリの枠組みから描いた3部作の開幕篇。

電撃的な英独講和から8年後の1949年。講和を実現させた政治派閥は「ファージング・セット」と呼ばれ、イギリスの政治世界で絶大な権力を誇っていた。そのファージング・セットのひとりで、将来の首相候補と目されていた下院議員のジェイムズ・サーキーがハンプシャー州の大邸宅で催されたパーティーの翌朝、死体となって発見される。

遺体の胸には、ナチスの勢力下にある大陸のユダヤ人たちが身に着けることを義務づけられている星印が描かれた布が、ナイフで刺し貫かれていた。サーキーは、8年前、渡独し講和を実現させたという栄光の過去があった。しかし、それはユダヤ人にとっては、大陸のユダヤ人をナチスに売るということでもあったのだ。果たして、犯行はサーキーを恨むユダヤ人によるものなのか……。

ストーリーは、ファージング・セットの主要なメンバーの娘で、ユダヤ人の銀行家の夫と結婚したルーシー・カーンの一人称と、事件の捜査にあたることになったスコットランドヤードのカーマイケル警部補の三人称の交互の視点から構成される。

本作は歴史改変世界を舞台にしているが、ストレートには改変点は示されず、新聞の記事や、登場人物の回想などの断片から、陰鬱な世界情勢が浮かび上がってくる仕組みになっている(たとえば、開戦8年を経た現在も独ソ戦はつづき、アメリカでは対独宥和論者のリンドバーグが大統領となり、アジアでは日本が主導した東亜共栄圏が成立している)。

一方で、この仕組みは、歴史に明るくない読み手にとっては、改変点が分かりにくいという欠点がある。邦訳版では、訳者による註がつき、欠点をカバーしている。良い読者サービスといえるだろう。

イギリスの階級社会の描写などを交じえつつ、主に事件現場である屋敷で、物語は進展していく。しかし、その小さな場所から徐々に浮き彫りにされていくのは、歴史の波に翻弄される、もうひとつのイギリスの姿だ。ミステリという文法を用いながら、もうひとつの歴史を描き出す作者の手腕は見事。

本書のラストには、続編が気になって仕方ない結末が用意されている。その後のイギリス、そしてカーマイケルを描いた第2弾、第3弾も8、9月とつづけて刊行予定とのこと。展開が非常に楽しみなシリーズだ。ナチス・ドイツが勝利した世界での殺人事件を描いたロバート・ハリス『ファーザーランド』に匹敵する傑作になる予感がしている。