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ぽっぺん日記@karashi.org


2007-09-05(Wed) [長年日記]

_ なんにもないところから芸術がはじまる(椹木 野衣) なんにもないところから芸術がはじまる(椹木 野衣)

本が好き!経由で献本して頂いた。

『新潮』に連載された、椹木野衣による評論を一冊に纏めたものが本書。 芸術というと、妻は趣味で水彩画や鉛筆画を描いたりしているのだが、私自身はほとんど 縁がなく、せいぜい、たまにNHK「新日曜美術館」を見るくらいなものだったりする。 そんな訳で、本書は「俺でも読めるかなー」という半ば挑戦のような形で読んでみたのだが、 まったく知らなかった現代芸術について新鮮な感覚で読むことができ、なかなか面白い読書体験だった。

本書に収められている評論は下記の通り。

  • 希望のための、ささやかなテロ、のようなもの
  • K.K.の密室
  • 「うまい」ことの煉獄
  • 血染めのウィーン観光案内
  • 火の山の麓で──三松正夫と昭和新山
  • バリ島、幽体離脱的文化ガイド
  • 榎忠と「半刈り」の世界
  • 真昼の星空、ラジオと彗星
  • 二〇世紀の大きな振り子
  • 文化における岩盤の露呈について
  • 大竹伸朗―─寒さと残酷さからなる響きのブルースI
  • 大竹伸朗―─寒さと残酷さからなる響きのブルースII

『希望のための、ささやかなテロ、のようなもの』で言及されている飴屋法水の暗室に24日間篭るという、個人的にはなんの意味があるのか、さっぱり分からないパフォーマンスにも色々な意味で衝撃を受けたのだが、 それを上回るインパクトを受けたと同時に、個人的に本書の一番の収穫だったのが、『榎忠と「半刈り」の世界』を読んで初めて知った榎忠だ。

榎はなんといっても、その生き様が凄い。榎の代表作は「半狩り」とパフォーマンスだが、その実態は全身の体毛を頭からつま先まで半分剃り落とすというものだ。 それが一過性のものであれば、まぁ、変わった人がいるな、くらいなレベルのものだが、榎は この格好で、電車通勤をしていたというのだから、びっくりしてしてしまう(そう、榎は「日曜芸術家」なのだ)。 p.137には「半狩り」の写真が掲載されているが、思わず吹き出してしまった。

さらに笑ってしまうのだ、「半狩り=ハンガリ」だからと、それだけの理由でハンガリーに行ってしまうという行動力。榎の妻もその旅に同行するのだが、その感想が、

パスポート写真との不一致やヴィザの確認、不審人物の疑惑などに悩まされながらブタペストからルーマニア国境近くの目的地デブレッツェンまで列車で向かう途中には、さすがになぜこんなことをしているのかと妻は泣けて来た(p.138)

というものだったそうだ。 なんと言うか、凄いバカっぷり(誉め言葉)で、あー、こういう人が日本にもいるんだな、と思うと、なんだか清々しい気分になる。 榎忠については、後日、作品集などを見てみたいと思う。

その他、 『血染めのウィーン観光案内』で触れられている第二次世界大戦の遺物であるウィーンのフラクトゥルム(高射砲塔)──宮崎駿の雑想ノート(宮崎 駿) 宮崎駿の雑想ノート(宮崎 駿)所収の『高射砲塔』では、ドイツに設置されたフラクトゥルムが主役となっている──や、 『火の山の麓で──三松正夫と昭和新山』で語られる、昭和新山が世界でも珍しい私有地内の火山であるといったエピソード がなかなか興味深かった。

さて、本書は上記のように興味深い点が多かったのだが、残念ながら、著者の意見に同意できない部分も多々あった。いくつか挙げておく。

まず、前述した『希望のための、ささやかなテロ、のようなもの』で紹介されている飴屋法水のパフォーマンスだが、タイトルにもある通り、著者は「テロ」という言葉と強く結び付けて語っている。 「テロ」という言葉自体は、飴屋が著者に宛てたメールで最初に使われたものだが、本章の中で著者が幾度となく使用していることから考えて、少なくとも、その言葉がパフォーマンスを 表現するものとして著者が肯定していると考えて差し支えがないだろう。

では、テロ=テロリズムとは一体、何なのか。 三省堂「大辞林 第二版」 によれば、

一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使

がそれだ。この定義から見て、飴屋のパフォーマンスはテロなのか? 答えはノーだ。なんの政治目的も表明していない、このパフォーマンスは、どこから見てもテロではない。 にも関わらず、強く「テロ」という言葉を使う著者の姿勢には違和感を覚える。穿った見方をすれば、ことさらに「テロ」という言葉を強調することによって、 まるでポスト911を流行のごとく扱い、それに乗ろうとしていたのではないかという気さえする。

また、『大竹伸朗──寒さと残酷さからなる響きのブルースII』では、ゴミを拾い、それを構築し直す大竹伸郎の作品と、 荷物を抱えたおばあさんに手を貸す大竹の行為を関連付け、著者はこのように述べる。

その時、おばあさんにすっと差し伸ばされた手は、誰も見向かない路上のゴミにすっと手を伸ばす大竹の仕草と本質的に変わりがないからだ。いま、おばあさんをゴミよばわりするような言い回しをしてしまったが、そうした人々が、傍若無人な現代社会によってときにゴミあつかいされてしまっているのは残念ながら事実だろう。(p.233)

読んでいて非常に不快な部分だった。おばあさんはもちろんのこと、大竹に対しても失礼な物言いではないだろうか。

その他、レトリックが多用*1された文章などについても言いたいことがあるのだが、これは好みになってしまうので止めておこう。

芸術に関しての知識がゼロの人間の読書感想を勝手気儘に書いてみたが、現代美術についての造詣が深い人は本書を読んでどのような感想を持つのだろうか。他の人の意見を聞いてみたくなる一冊だ。


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書評/芸術・美術

*1 「過剰なほど」と付け加えたくなる。

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